今回は、世界初の先物市場である“堂島米市場”について考察してみたいと思います。
堂島米市場の起源
17世紀半ば、大坂の豪商、淀屋の門前に米商人が集まり、米の売買が始まりました。それが堂島米市場に発展していきました。
江戸時代、諸藩が年貢として集めた米の多くは、大坂をはじめとする大都市へと運ばれました。諸藩は、中之島周辺の蔵屋敷に納めた年貢米を入札制によって米仲買人に売却し、落札者には米切手という1枚当たり10石の米との交換を約束した証券を発行しました。この米切手には、未着米や将来の収穫米も含まれ、これらが盛んに売買されるようになったのです。
堂島米市場の発展の過程
とても重要なのは堂島米市場が形成されるまでの過程です。そこに至るまでに幕府はどんな順番で、どんなことをしたのか、という点です。
徳川吉宗は1728年に正米商い(しょうまいあきない・米切手を売買する現物市場)と帳合米商い(ちょうあいまいあきない・米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場/延売買・投機取引)を公認しますが、取引を公認するだけでは市場は生まれませんでした。先物市場が生まれたのは、1730年、堂島米会所が徳川幕府公認の取引所として設立されてからです。そこでようやく市場として機能していくわけです。
このケースから、「政府が取引を公認するだけでは、市場は成立しない」ということが分かります。金融システムを形成するには、取引を行う機関、取引ルール、信用機関、手形交換所、が必要です。金融制度なくして取引しても、そこに価値はありません。取引だけではなく、その背景にある金融制度についても理解しなくてはならないです。堂島米市場が形成されるまでの過程をみれば、それがよく分かります。
近代取引所に通じる会員制度、清算機能などが整えられた堂島米市場は、日本における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られています。
江戸時代の商人は非常に頭がよかったんですね。コンピューターのない時代に、大量の取引を滞りなく清算できた処理能力の高さには驚くほかありません。世界で最初に複雑な先物市場をとてもうまく運営する方法を考え出しました。その賢さには感心するばかりです。
米切手と米飛脚
大坂で形成された「米切手」の価格は、米飛脚(こめびきゃく)という、米相場情報の伝達に特化した飛脚集団によって全国へと送信されていました。飛脚の速度に飽き足らない人たちは、鳩や手旗信号によって米相場の情報を伝達することまで始めました。
競争者よりも早く大坂の米の価格を知りたいと思う、投機を行う人々が、日本各地に存在していたのです。
現在の為替や株の世界と一緒ですね。
このような市場経済では、いい面もありますが、悪い面もあります。江戸時代の市場経済も同じです。
例えば、「米切手」を過剰に発行する大名が出てきてしまいました。
「米切手」は、発行した時点で大名にお金が入ってくるので、打ち出の小槌のようですが、あまりにも多くの「米切手」を発行してしまえば、「米切手」と米俵の交換に応じられない可能性が出てきます。
しかし、財政的な苦しさから、危ないと分かっていても「米切手」を過剰に発行してしまう大名もいました。広島藩(浅野家)、萩藩(毛利家)、佐賀藩(鍋島家)、久留米藩(有馬家)など、名だたる大大名たちが、打ち出の小槌の誘惑に負けてしまったのです。
また、より高く「米切手」を売りたいと願うあまり、行き過ぎた行動に出る大名もいました。
佐賀藩や熊本藩では、大坂で売却する全ての米俵に、その俵を梱包した農民の名前を書かせていました。万が一、砂利交じりや虫入りなどの品質不良が見つかった場合における責任を明確にするためです。
さらに熊本藩では、大坂で売れるのは見栄えがよい米だとして、見栄えの悪い米は年貢として受け取らないことさえあったのです。
大名が、大坂米市場の要求に応えようとした結果、年貢米を納める農民は、量だけでなく、質の面でもかなりの負担を強いられることになってしまったのです。
江戸時代中期の儒学者の中井竹山(なかいちくざん)(1730〜1804)は、堂島米市場における「米切手」先物取引を米とは全く関係のない、単なる博打であるから速やかに停止させるべきであると、時の老中・松平定信に進言しています。
まとめ
投機マネーが先物市場を動かし、さらにはそれが実体経済に良くない影響を及ぼすことは現代でもよくあることです。
しかしながら、世界初の先物市場である堂島米市場は、全体としては、非常に健全な市場であり、近世の日本の経済発展に大きく貢献したと思います。
江戸時代の日本は、実は世界に先駆けた金融立国だったのです。
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